終章  ヒロシマにかける虹

Ⅰ ケロイドのイエス

 デルタの砂にどのくらい
 不思議な時間を臥っていたのか
 まだほの暗い渚には腐爛した死魚が重なり
 色のあせた海苔と
 くずれた牡蠣が散らばっている
 海はまだ涸れたままだ
 汚れた砂のひとつぶひとつぶが悲しげに歌い出す
 元安川をさかのぼると
 無気味な朝焼けがひろがり
 嘆きのドームが立ちあがった

空はない
わたしの抱く円い空はない
あの日の爆裂がわたしを歪ませてから
ひとよ
コスモスの咲く空はヒロシマにはなくなったではないか

光はない
わたしを暖めてくれる青い光はなく
荊冠を吹き抜けてゆく幽鬼たちが
日ごとにむしりとってしまうのが
しんしんと冷え切ってゆくわたしに
ひびが入り ガスがしみこんでいく
ひとよ
のろわれた廃墟に石が叫び出すのが
きこえないのか

体がない
わたしを支える強い煉瓦と石がない
黒い雨がわたしにはじけ
死の灰がわたしの骸骨を吹きさらすたびに
赤錆びた鉄の棘はおまえの眼にささり
世界の眼にささり
 一陣の風吹きおこれば
 ヒロシマの血と炎が渦巻いて
 ひとよ
 痛みのバラがあなたの胸に咲いてくるのだ

おお 原爆ドームよ
ねじれ曲がった知慧の螺旋階段をもう昇りはできないが
悪い磁気嵐にさらされて
黎明にも登りかねているところへ
ふと川沿いの掘立小屋のあたりから
ゴムの焼けるようなにおいがしてきた
何をいぶしているのか
またしても海の彼方から持ちこまれた
キャタピラの残りやタイヤを焼いているのか
顔をそむけて佇っていると
鳳凰が眼に飛びこんできた
デルタをめぐる低い稜線の上に
聖堂の十字架がくっきりと空を限っている
一人二人と朝のミサにゆく前庭に
黒い服の園長はバラの苗床を整えている

荘重な朝のオルガンが鳴りはじめる
ステンド・グラスを通した和やかな光につつまれると
むらさきの大気の中で
ぼくは永遠者のまなざしを感じる
そして地の民の食卓に並べられたパンを裂き
共に感謝して食べるとき
ぼくは生きていることの喜びを覚え
あのイエスの霊体がぼくと共に生きているのを感じる

だが 眼をひらくと
祭壇には白い聖がんが固く置かれ
クポラに飛びかう死者たちの声が聞え
冷えびえとした大理石の床にぼくはいたたまれなくなった
確実なことは
いまヒロシマに人間の悲惨があるということで
バッハの鎮魂曲をさえぎるように
白い頭をふるわせて
あのボロぎれた皮膚が白いカルテのように舞いはじめ
またしても真犯人のカードをぼくは突きつけられる

 真犯人はアメリカにいるわ
 ぐっすりと寝こんでいるわ
 トルーマン大統領とティベッツ大佐と
 人類の法廷に引き出すべきよ
 日本にもいるわ
 切腹もできないで
 いまのうのうと議会でふざけている
 戦犯を許すべきではないわ
 戦争をたくらむ悪魔は
 すべての人の心の中にいるというけれど
一般論にすりかえては駄目よ
 アウシュビッツはドイツが焼いたガス室
 ヒロシマはアメリカが焼いたケロイドの顔
 はっきりしていることだわ
 これにこりないで今もベトナムで人も土も焼きつくそうと
 謀議をこらしているサタンの一味が
 ペンタゴンにもクレムリンにもいるじゃないの
ボタンが押されたら
もうみんなおしまい
 核によって平和を維持するのだという
 マクナマラの抑止理論なんて悪魔の理論だ
 徹底的に報復する確証破壊では
 何れにせよ人類はとも倒れなのだ

まだ慰められぬ無名の死者たちの
砂の一粒一粒を確かめようと
アレチノギクの原をさまよい
川の波をさらっていると
記憶をよみがえらせた市民たちが次々に連なり合って
遂にすっかり銅版に刻みこんで
ここ中島町の記念館に修めた丑三つ刻
平和公園の木が黒く沈んでゆくと
慰霊碑の下からは寿司屋・紙箱屋・喫茶店・映画館の四軒が起きあがり     
星屑に照らされた砂原から
由緒ある商家のひさし・細長い露地・三軒長屋が立ちあがってくる
そして白っぽい露地から一人の少女が
ふうらりと近づいてきた

 ひきつったほうの わたしの顔を見ないで
 顔から首へかけての赤黒いケロイドで
 わたしは何時も暗いヒロシマしか見えないの
 ずるりと顔のむけたヒロシマは
 まだあちこち燻りつづけているの
 みんなチロチロ焔を燃やしながら
 お友達をさがしているの

少女のあとについて慈仙寺の鼻に近づくと
はや供養塔のコンクリート板をはねのけたのか
無数のドクロがとりどりに溢れだして
ぴらぴらした皮膚の
あらめの揺れるような踊りをはじめた

さめ切った夜のふかみ
一粒一粒の砂が死者の眼のように光はじめ
無数の光の粒となってギラギラ輝くよう
一握の砂をすくう重たさに
ぼくは頭の割れるような眼暈と震えを覚え
吐き出す息はたゞ恐れと祈りをこめて
八月六日
再び死の雲を立てないよう
核兵器の廃絶を誓うのだ

    その時 天よりの光がそそぐと見る間に
砂漠にはとの水が流れはじめ
一ところに集った死者たちの踊りの中に
ケロイドのイエスが十字架にかかっていた

Ⅱ ヒロシマにかける虹  (略:作曲された部分)
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